終戦の時、私は小学校の2年生でした。颯爽と走る進駐軍のジープを羨望の目で見ていました。乗用車は人口16万余の小樽市でもバスとハイヤーしかない時代です。貨物輸送は馬車が主でしたが、オート三輪車も少しはあり、私の父の工場にも1台ありました。

 数年後には自家用乗用車を見かけるようになりました。当時はまだ日本では自動車の製造はしていませんし、輸入もされていませんでしたから、戦前に輸入された自動車です。戦争中はガソリンもなく、空襲を避けてしまってあったのでしょう。

 私の父も経営していたゴム工場の景気がとても良かったようで2台買いました。黒いセダンと空色のオープンカーです。そのオープンカーに家族全員が乗って、札幌へサーカスを見に行ったことを、今も鮮明に覚えています。サーカスよりも、往復2時間余りのドライブが嬉しく、自分も大人になったら絶対に自動車を買うんだと心に決めました。

 その頃のドイツは日本と同じでまだ復興途中でしたから、アメリカ車の全盛期でした。中でも最高はキャディラックです。ハリウッドのスターが奥さんのバースデープレゼントにキャディラックを贈ったという新聞の記事を読んで驚きました。キャディラックは正に富の象徴のように思えたのです。

 中学2年生の時に父が経営するゴム工場が倒産しました。以前から持っていた東京品川の家に引越し、父は新橋で金融会社を始めました。数年後には日本も復興を遂げ、第1回日本モーターショーが日比谷公園で開催され、トヨタの初代クラウンが発表されました。

 父の会社も関東一円に30数社の支店を出すほどになり、自宅の庭に立派な車庫が建ちましたが、自動車を買う前に「保全経済会事件」の余波を受けて、会社が倒産してしまいました。一家は小樽へ逆戻り、1年後に兄と私は休学していた早稲田の付属高校へ復帰、間借りをして自炊生活を始めました。

 父からの仕送りが途絶えがちで満足に食事もできない状態でしたが、時間があると近くの国道へ行き、通る車を眺めるのが楽しみでした。トヨタ自動車の広告「いつかはクラウン」というコピーを頻繁に目にしていましたが、私の夢は「いつかはキャディラック」でした。

 日本はバブル景気に沸いていた頃は、外車といえば猫も杓子もベンツでしたが、私はアメリカ車に拘り続け、何台ものフルサイズのアメリカ車を買い換えました。しかし、何時も心の中には「いつかはキャディラック」の思いがありました。

 50歳を超えた頃、横浜アリーナで輸入車のモーターショーがありました。GMのコーナーには数種のキャディラックが陳列されていました。中でもフルサイズのフリートウッド・エレガンスは他の車を圧するように燦然と輝いていました。その車を見た途端、よし!夢を実現する時が来た!と思い、気が付いた時には契約を済ませていました。

 納車までの10日間はそれまでに味わったことがないほど永く感じられました。そして、待ちに待ったキャディラックが届きました。私は事務所の前に停まっているプラチナ色に輝くキャディラックを眺め、感慨に耽っていました。「俺は子供の頃からの夢を遂に実現したんだ!」

 十代の頃に「いつかはキャディラック」と心に決め、実現したのは30数年後でした。単に買うだけならもっと早く可能でしたが、自分にはまだキャディラックに乗る資格がないと思っていたのです。キャディラックを手にした感激は、結婚した時、子供が生まれた時、それに次ぐものでした。

 しかし、良いことは永くは続きません。土地の暴騰を座視していた政府が、突然に金融引き締めを始めたのです。土地は暴落し、一気に不景気に陥りました。真っ先に不景気になったのは不動産業です。仲間の会社が次々と倒産し、夜逃げや自殺をした同業者もいました。私の会社でも、仕入れた物件が値下がりして一気に赤字に転落、買ってから丁度2年目のキャディラックも売ってしまいました。

 やっと手にしたキャディラックを失いましたが、自分の夢を一度は実現したことで満足でした。キャディラックを手に入れていなかったら、後悔と挫折感を味わい続けたと思います。今はポンコツの軽自動車に乗っていますが、どんな高級車を見ても羨ましいとは思いません。

 私にとってキャディラックは、夢と喜びと力を与えてくれた特別な車なのです。