INDRA REGENT HOTEL


 インドラ・リージェント・ホテルはタイの首都バンコクのプラトゥナムにある18階建ての大きなホテルだ。入り口にはターバンを巻いて立派な髭をたくわえたいかついインド人のドアボーイが立っている。東南アジアのホテルにはインド人のドアボーイが多いようだ。ロビーは天井が高く広いのだが薄暗くて建物内部全体に古さが感じられる。かってはバンコクを代表するホテルだったのだ。4階にあるシアターレストラン「サラ・タイ」はタイダンスで有名だ。ホテルの1階は大きなショッピングセンターに続いている。私はここで何度かシャツをオーダーした。採寸をするとその日の内に部屋まで仮縫いに来る。翌日には出来あがったシャツが届くのだ。このホテルは日本からの団体客はあまり利用しないようだ。

 私達家族が初めてこのホテルに泊まったのは10年前のことだ。このホテルを選んだのはプラトゥナムにあるからだ。プラトゥナムは沢山の食料品や衣料品を売る屋台のような店が迷路のように軒を連ねている地域だ。また、シーフードレストランが建ち並んだ一角もある。歩道には縁日のように露店が隙間なく並んでいる。バンコクでもこの地域の物価は安く、商品の種類も量も豊富だ。いつも人が満ち溢れ活気がある。庶民の生活の匂いが漂っている街なのだ。

 ホテルに到着したのは暗くなってからだった。夕食はホテルで済ませることにした。タイはゲテモノが多いけれど、中国料理なら安心だろうということになった。メニューはタイ語と中国語だけだ。タイ語はちんぷんかんぷんだが中国語は漢字だからある程度の意味は解かる。どんな料理か判らないが豚肉を注文した。料理がくるまでタイのビール、シンハを飲んで待った。女房が「ちょっと、あれを見て!」と言った。見ると、ウェイターが子豚の丸焼きを運んでいる。「わあー気持ち悪い」と言って見ていたのだが、そのウェイターはテーブルの間をぬって私達の席に来てテーブルの上に置いたのだ。子豚は飴色に焼き上げられ、耳の先がちょっと焦げている。

 当時5歳の娘は「私を見てるー、そっちへ向けて!」と今にも泣き出しそうだ。私も女房もとても食べる気にはなれない。ウェイターに下げるように言い、麺類を注文した。味はまあまあだった。食べ終わった頃、ウェイターが大きな皿に盛り上げた肉料理を運んできた。「えっ、注文していないよ」と言ったのだが、それは先ほどの子豚の変わり果てた姿だったのだ。丸焼きの姿が目に浮かび、箸をつけることができない。早々にレストランを退散した。子豚の丸焼きはタイでもご馳走なのだろう。注文して手をつけずに出て行く私達をウェイター達が怪訝そうに見送っていた。子豚の丸焼きは6千円くらいだった。

 バンコク市内の道路は車の渋滞がひどい。特にプラトゥナム界隈は人と車の洪水だ。車はけたたましくクラクションを鳴らして人ごみを押しのけて通る。車が優先なのだ。道路を横断するのも命がけだ。ホテルの前には大通りを渡る歩道橋がある。階段の途中に物乞いの男がいた。見ると足がないのだ。空き缶を差し出してお金を恵んでくれと言ってる。小銭を入れて階段を上がってみると歩道橋の上には十数人の物乞いが並んで座っていた。私が前を通りかかると一斉に空き缶を突き出してお金を催促した。男も女も子供もいる。その全員の手や足がないのだ。ベトナムなら地雷で手足を失った人が沢山いるのは解かるが、ここはタイなのだ。タイでは人身売買が行われ、物乞いをさせるために手足を切り取るという話しを思い出した。急ぎ足で通り抜けると後ろから罵声が聞えてきた。歩道橋を降りても暫くは寒気がおさまらなかった。それ以来、私はプラトゥナムへ行っても歩道橋は渡ったことはない。

 ホテルの各階のエレベータの前にはガードマンのデスクがある。警官と同じような制服を着て、腰には38口径の拳銃を付けている。不審者が客室に行かないようにチェックをしているのだ。2回目にこのホテルに泊まった時のことだ。私の家族と弟の4人でだった。エレベータから降りるとガードマンが片言の日本語で話し掛けてきた。話しを聞いて貰いたいので、勤務が終わったら部屋へ訪ねて行っても良いかと言っている。真面目そうな青年だ。2時間ほど経ってから彼がやって来た。2年間日本語の勉強をしたので、日本へ行ってみたいそうだ。エアーチケットも買ってあるのだけれど、ビザを取るためには日本人の身元保証人が必要なのだそうだ。私が注意をしたにもかかわらず、弟が気軽に書類にサインしてあげてた。彼は28歳、名前はピューチャー、タイ人にしては背が高い、180CM近くはあった。

 私達が帰国して2週間ほど経ったころ、ピューチャーから電話が掛かってきた。なんと成田からだった。責任上、弟が車で彼を成田まで迎えに行き、私の家に連れて来た。それから5日間、彼は私の家に泊まった。弟は仕事を休んで、毎日彼を車であちこち案内をしていた。真っ先に音を上げたのは私の女房でった。彼が入った後の風呂は浴槽も洗い場も垢でべとべとなのだ。私がきれいに洗っても、女房は気持ち悪いと言って風呂に入ることが出来なかった。タイの普通の家庭には風呂はない。シャワー、それも水のシャワーだけだ。28年間の垢が溜まっていたのだろう。彼は毎晩タイの母親へ電話をかけ「ママー淋しいよー」と言うのだ。それも28歳の立派な体格の男が言うのだ。女房が彼の為に一生懸命ご馳走を作ってあげて「美味しい?」と聞くと、彼はいつも「不味い」と言うのだ。これでは女房が嫌がるのも無理はない。3日目には私は弟に「何とかしろよ」と言った。

 ピューチャーは弟に「ビザが残っている間に働いて、かかった飛行機代だけでも稼ぎたい」と言ったそうだ。弟は友達の工務店の社長に頼んで彼を雇って貰うことにした。そうしてピューチャーは5日目の夕方に工務店の寮へ移って行った。女房も私もほっとした。

 その後のことは弟から聞いた話しだが、仕事がきついと愚痴を言い、2日に1日は仕事を休んでいたそうだ。南国の人間には働き者はあまりいないが、ちょっとひどすぎる。10日ほど経った頃、彼は寮からいなくなったそうだ。その後の彼の消息は全く判らない。インドラ・リージェント・ホテルを思い出すと、プラトゥナムの雑踏と情けないピューチャーの姿が目に浮かんでくるのだ。