私は買物に行ったセブシティから戻ってきた。ホテルに入るとフロントスタッフの女の子達がなにやら言い合っていた。彼女達の目の前のカウンターの上には1個の財布があった。

「どうしたの?」私は彼女達に声をかけた。
「この財布をどうしたら良いか話し合っているのよ」年嵩のエディータが答えた。

 聞いてみると、宿泊客のアメリカ人の女性が、その財布を忘れていったそうだ。
「それならば、彼女に届けてあげれば良いだろう」私は言った。

 途端に数人から声が上がった。
「これはマリア様の思し召しよ。私達に下さったのだわ」

「でも、持ち主が判っているのなら、届けなきゃ」私は言った。

 更に多くの声が上がった。
「でも、マリア様の思し召しよ。マリア様が貧しい私達に与えて下さったのよ」
「マリア様のお心に逆らうことはできないわ」
「財布の持ち主はお金持ちよ。財布が戻らなくても困ることはないわ」

 彼女達は本当にそう思っているのだろうか。何とも都合の良い考え方だ。私にはそう思えた。結局、彼女達は財布の中身の小銭を皆で分け合ったようだ。少々の悪いことはマリア様に責任をとって貰おうという考え方は、彼女達の生活の知恵なのだろうか。そのお陰で、彼女達の良心の痛みは少しは和らぐのだろうか。

 私は彼女達を非難する気持ちにはなれなかった。彼女達にこのような考え方をさせる、この国の社会の仕組みに腹が立つのだ。同じ人間が同じように、いや、それ以上に一生懸命働いても、一方では贅沢な暮らしを享受し、また一方ではその日の食事もままならないのが現状なのだ。このようなことが何時までも許されていて良いものだろうか。

 フィリピン人にも犯罪を犯す者は大勢いる。でも、私から見ると、憎めない小悪人が多いと思うのだ。貧しさ故の犯罪なのだ。中には殺人などの凶悪な犯罪もある。そのような犯罪を犯す彼等にとっては、自分の人生は100万円のお金よりも安いのだ。どうしてそのように考えるのか。あまりにも貧しすぎ、夢を抱くこともできないのだ。

 発展途上国はどこもそうだが、貧富の差が大きすぎるのだ。ほんの一握りの特権階級が冨を独占し、貧しさに苦しむ大多数の国民を省みようとしないのだ。この事は、かの国だけの問題とせずに、日本はもっと影響力を行使すべきだと思うのだ。