兄との再会

 1月16日、今日は日曜日ですが早起きして家族で鎌倉へ向かいました。

 5年前の6月に、独りでヨットに乗って日本を出航した兄が、ビザ取得のために前夜初めて一時帰国しました。真っ先に両親の墓参りに行くというので、私たち家族も合流することにしたのです。

 竹の庭園で有名な報国寺は、朝から観光客で賑わっていました。本堂の左手に枝折戸があります。ここを通ると墓地に入ります。ここから先は観光客は入ることができません。墓地には人の姿はなく、朝の冷気につつまれ静まりかえっていました。参道を左に曲がると、道は斜面の上の方へ真直ぐに伸びています。

 西久保家の墓はかなり上の方にあります。見上げると墓前で黙祷する兄の姿が見えました。坂を登る私の足取りは自然に速くなり、妻や娘を引き離していました。兄は出航前と変わらず、潮焼けした顔は精悍さを増し、かえって若々しくなったようにさえ感じました。

 ヨットの単独航海は死と隣り合わせです。いつ命を落としても不思議ではありません。現に、兄はこの航海中に何度も死を覚悟したそうです。そうなると、かえって冷静になり正しい判断をすることができたそうです。そのような極限の状況では、本で勉強したことはほとんど当てはまらないそうです。永年に亘って体験して身に付けた技量が命を救うのだそうです。

 ビルの5〜6階の高さの波が次々と小さなヨットに襲い掛かってくるのです。数十時間不眠不休で嵐と闘っていると、睡魔に襲われ、舵を握る手も感覚がなくなるそうです。体力の限界に達してはもう何もできません。這うようにしてベットに辿り着き、眠りについたそうです。ここで眠ってしまっては、二度と眼を醒ますことはないかもしれないということは頭に浮かぶそうです。でも、「自分がやれることはすべてやったのだ。それで死ぬのならそれも良いだろう」と思うと、恐怖心は感じないそうです。人事を尽くして天命を待つという心境なのでしょう。

 眼が醒めて、自分が生きていることに気付く頃には嵐も治まり、航海を続けられる喜びを感じるそうです。何故そのような危険を冒してまで航海を続けたいのだろうかと思われるでしょうね。ヨットをやっていた私には、兄の気持ちが少しは解る気がします。

 墓参の後、若い頃に兄とディンギーを乗り回した鎌倉、江ノ島、逗子と湘南海岸を1時間ほどドライブした後、昼食をとり、再会の祝杯をあげました。私は日本酒ですが、酒を飲めない兄はコーヒーです。兄は久しぶりの和食に、美味しい美味しいと舌鼓をうっていました。外国でも大きな都市には和食の店は結構ありますが、ヨットハーバーの近くにはほとんどないそうです。それに、和食は高くて普段はなかなか手が出ないそうです。

 日本を出航した当座は、ヨット雑誌に航海記を連載していたので、その原稿料収入で金銭的な余裕はあったのですが、その雑誌が廃刊になってしまい、その後の定期収入は年金だけになってしまったそうです。そんな話を聞いて、折角日本に戻ってきたのだから、暫らく日本でのんびりして欲しいと思うのですが、兄は、置いてきたヨットが気懸かりで居ても立ってもいられな様子です。ビザが下りたら、直ぐにオーストラリアに戻るそうです。その間はヨット関係者とのスケジュールがいっぱいで、私と会う時間はもうとれないそうです。

 兄は6〜7年をかけて、オーストラリアからインド洋へ向かい、そこから地中海を経て大西洋を横断、カリブ海を目指すそうです。兄の航海は時間を競うものではありませんし、余生のすべてをこの航海に充てているのですから時間は充分あります。気に入った地には1ヶ月、半年と滞在して、現地の人々や世界中から集まるヨット仲間との交流を楽しみながらの旅なのです。しかし、今までのカナダ、アメリカ、南太平洋、ニュージランド、オーストラリアと周ってきたコースとは違い、連絡をとるのが難しくなるようです。私には、次の連絡が入り、無事が確認できるまでの間が長く感じられることでしょう。

 3時間後には、航海をサポートしてくれた無線関係者や、世界最年少単独無寄港世界一周記録を樹立した白石鉱次郎氏たちヨット関係者が待つ会合へ向かう兄と、再会を約す堅い握手をして別れました。果たして、6〜7年後に元気な兄の姿を見ることができるのだろうか・・・そんな思いを振り払い、去って行く兄の後姿を見送りました。